セックスしないと出られない部屋について

セックスしないと出られない部屋という概念がある。

 

同人や創作界隈のネタ的設定として、閉じ込められたふたりがどうするか…という反応を想像して楽しむというものである。

この部屋はしかし、現実世界で我々を囲いうるものでもある。


古文の問題集で、恋する人と性交渉に至ることを「本懐を遂げる」と表現した解説文を目にしたことがある。人の本懐は性交渉なのか…と高校生ながらに考えた記憶がある。

 

恋愛物語においても、性交渉に及ぶことを 一線を越える/気持ちの区切りにする という話は目にするものである。人はある相手と性交渉に及ぶと、もうその前には戻れないのだ。その意味で、セックスしないと至れない境地がある。

セックスしないと出られない部屋がある。

そして、閉じ込められるべくして閉じ込められている人がいる。

接触に及ばないまま、自分の手や関係を汚さずにあれこれ考えるのは心地良い。まだ到達していないからこそ、想像や可能性の余地が残されている。明確な終焉を見ないままで、あるけなかった道こそが美しいものだ。振られるか性交渉に至るかしない限り、甘い妄想の部屋にしがみつくことができる。

 

 

好きだった人と数年間閉じこもり続けた部屋から出る機会があった。

会えるとも思っていなかった。あわよくば言葉に言葉が返ってくれば、万に一つの可能性でごはんでも食べられれば、と思っていた。3年の間、また会って何事もなかったように当たり前に和やかに話す夢を見て、氷が解けたように安堵して、目覚めて絶望する朝が、そして夢さえ貴重で二度寝して迎えた昼が何度もあった。

 

日帰りで訪れるには遠い彼の進学先を訪れるにあたり、

その気があるなら泊まれるような準備をして来なさい、というメールがあった。

その気ってなんだよ…  私は彼が好きで、彼もそれを知っていた。彼にはほかにどうにもならない好きな人がいて、私もそれを知っていた。どうにもならないまま、試験期間に彼の家を訪れて性的接触なしに眠るような日があった。そんなことではすまないだろうな、もう大人なんだ、高校生の妄想のその先へ行くんだ、と感じた。

 

ミロのヴィーナスの像がある。失われた腕の真の姿をめぐって、古今東西の人々に自由なイマジネーションを与えている。彼女に完璧な答えとしての腕があったら、きっとここまで有名ではなかっただろう。想像の余地があるからこそ美しいのだ。

部屋から出るのには勇気が要った。人間関係の本懐を見るのだ、終わらせて思い出にするのだ、という気持ちとまだこの部屋に引きこもっていたいという気持ちの葛藤があった。想像の余地もない答えを突き付けられるのが怖かった。しかし、目の前に差し出された原動力の根源を いらない と言える数年間ではなかった。

 

ひっそり細々と繋ぎ続けた想いをめちゃくちゃに踏みつぶすような旅だった。

服を二日分持って、そのうち一日分を鞄から出さないまま、二日後に居住地に戻った。

 

バスが爆破されてしまえばいい、このままこの細胞を抱えて終われればいい、と願った。まったくの無防備だった。部屋から出てしまった私は何にも守られていなかった。

好きだけれど手の届かない人がいます。それで通してきたアイデンティティが根こそぎ崩れて、断片的な思い出やめちゃくちゃな体温の記憶が心を去来した。

セックスしないと出られない部屋の戸は開いて、もちろん最初からそうだったのだけれど、そこに彼はいなかった。浸水する船のように開いた扉からすべてが流れ込んでくるのと、ひとりで余熱だけで戦わなければならない。

一度交わった直線は二度と交わらない。彼はふたたび、そして永遠に私の前からいなくなった。祈って恋うて夢見たものと私を隔てる壁は、私と恋を守る壁だった。

 

触れない心の中の神さまから、肉も欲もある生身の人間に彼を引きずりおろすことができた。

どうにもならなかった恋だけが、解除できない呪いのように残る。どうにかなってしまったこの件は、いつか他の思い出と一緒になって消えていくだろう。この判断は過去数年分の自分への殺人だ。しかし今はそうなってほしいと思っている。